学生時代を終えて、
働くようになったとき。
社会人になっていくとき。
私は、
何も武器を持たず
鎧もつけずに
戦地にいるかのような、
とても心細い気分でした。
社会の中でどう振る舞えばいいのか
知ることができず、
(みんなそうなのかもしれませんが)
インターネットの黎明期で
今ほど情報は上がっておらず
欲しい情報になかなか巡り会えず、
私って何と弱い生き物なんだろう、
と思ってました。
身につけておくべきものを
身につけられなかったような。
そのせいで
多くの人に置いて行かれてしまいそうな。
ほんとに自信がありませんでした。
私の子供たちには
せめて武器を持たせて
自立させたい。
何が自分のよいところなのか分からずに
社会の中で迷子になることがないように。
そんなところで苦労するのではなく、
もっと
自分の見つけた仕事の本質的なところで
たくさん苦労を重ねたほうがいいじゃないか、
と思いました。
では
武器を持たせて自立させるには
どうしたらいいのか?
勉強をしっかりさせるのか?
習い事をたくさんさせるのか?
それとも、
何か一芸に秀でた子供にするのか。
礼儀正しければよいのか。
一般的にはそういうことを
あれこれ考えるのだと思いますし、
私もそうでした。
しかし
最初の子である長女がすでに、
習い事はすべて拒否。。
勉強も
どうやらそんなに得意ではない様子。
2番目の子はそのへん、
長女に「こうあってほしい」と
一般的に思ったとおりの子でしたが・・・
2番目の子は心配ない。
長女はどうしたらいい?
ずっと疑問に思っていました。
その疑問を払拭してくれたのが「門学」(link)。
勉強ができること、
習い事をたくさんしていること、
あるいは
一芸に秀でていること、
礼儀正しいこと、
それらは武器としては
じつに表面的なものだとわかりました。
もちろん
いろいろできるに越したことはないけれど、
できてもできなくても
どうでもいい。
子供の段階で「デキル」ことが
すべてではない。
そう思えたのです。
長い年月を通して
もっと武器になるのは、
自分の思考回路の特質、
価値観はどうなのか、
大事なことはどこにあるのか、
どういうキャラクターが「自分らしい」のか、
自分にふさわしいお金との付き合い方、
自分にふさわしい「知識」との付き合い方、
自分のエネルギーを上げる時間の過ごし方、
そういうことを
不確かな一般論ではなく、
「自分はこうなのだ」と
独自の指針として知ることでした。
「自分はこういう人間だ」
と
客観的に、細部まで知って、
それを受け入れ
自信を持つことでした。
そういう下地があれば、
自然に道は開けていきます。
昨日は
子供の門鑑定についての話の中で、
子供の門鑑定は
子供の生まれながらのそのままの性質を
潰さないため、
そして
もともと持っているものを伸ばすため、
と書きました。
子供がどれだけ
親の自分と違う性質の子だったとしても、
門学があれば
理解することができます。
共感はできなかったとしても、
理解し、肯定することができます。
門学を伝えた私の子供たちは、
自分はどんな人間かについて
迷うことはないだろうし、
人とむやみに自分をくらべて
苦しむことも
ないと思います。
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己を知り、己を生かす。
己を知ることなしには
己を生かせません。
迷うなら、
格闘するなら、
苦労するなら、
自分を知るところではなく、
その先の
「自分をどう生かすか」のところで
大いに立ち止まってほしい、と
私は私の子供たちに対して
思っています。
「かわいい子には旅をさせよ」
どんな旅を、
子供にさせたいですか?